南区「史跡散策路 星崎の里めぐり」
2011年 03月 27日
南区には史跡散策路が5コースありますが、そのうちの「コース 2 星崎の里めぐり」を選んだのは、私の家の菩提寺がこのコースにあり、この機会に寺の周辺の史跡を訪ねてみたいと思ったからです。。
先ずは南区の史跡散策路の全体図です。この中の右下、緑の線で示してあるのがコース2です。
市バス基幹1号で本星崎駅(〇印)下車、コースを左回りに歩きます。最初が星宮社です。ガイドによれば創始は舒明天皇のころ(629~641)で、星崎城築城(後述)のときこの地に移したと伝えられています。
星崎の岬の最南端にあり、里人が灯す常夜燈が灯台の役目を果たした伝えられています。この辺りの近くは海だったんですね。鳴「海」がすぐ隣であり、星「崎」の地名からも分ります。
次ぎは善住寺です。途中にカンヒザクラが見事に咲いていました。善住寺は慶安4年(1651)に浄土宗に改宗し、善住寺と改称して建中寺の末寺となっています。境内には愛染椿や、桑子地蔵、六地蔵などがあり、それぞれに謂れのある説明板が立てられていますが、先を急ぐ事にします。
高台に笠寺小学校がありますが、この場所が星崎城の跡です。“東西47m南北61mあまりで戦国時代末期には重要な役割を果たした中世城郭”と説明されていました。
ここを後にして「石神社」「光照寺百観音」「鹿島稲荷社」をめぐって、いよいよ菩提寺の「西来寺」です。ここには先日の彼岸に墓参りを済ませたばかりで、先祖はいい年をして何を馬鹿なことをしている・・と笑っているかも知れません。
このお寺には永井の姓の墓が多くあり、また寺に隣接して「永井星渚出生地」として永井星渚の屋敷跡があります。星渚は「永井荷風」の先祖で、野にあって尾張の儒学者として活躍された方だそうです。
その「永井荷風」を慕って昭和50年に建立された堀口大学揮毫の碑がこのお寺の中庭にあります。
“人生の真相は寂寞の底に沈んで初めて之れを見るであろう”
私の祖母はこの寺にそれほど遠くないところで生まれており、このあたりで歌われた里謡を子守唄代わりに、孫達に聞かせてくれました。
“お月さま こさま おみゃー(お前)の孫は 天からぶちおちて 油きゃぁに(買いに) 茶きゃぁに(買いに)
油やのまえで すべくってころんで 油は流れる 茶はふくたつ その油どうした
ずーといって ずいせんじ(瑞泉寺?) まがっていって まんぷくじ(万福寺?)
さがっていって さいりゃーじ(西来寺) きゃーより(貝より)やわきゃー(柔らかい) きゃーれんじ(海隣寺?)
いしよりかたい しょうかくじ(正覚寺?)・・・・・・”
西来寺に関する思い出話は尽きる事がありませんが、それは胸にしまって次ぎは津島神社の護符が流れついたとの謂れがある牛毛神社です。天白川の堤防上にあり、クスノキの大木が年月の古さを教えてくれます。
このあと、旧鳴尾学校舎、喚続(よびつぎ)地蔵、喚続(よびつぎ)神社、などを巡り、最後に「大江川湊」です。ガイドによれば、
“ここは「三つ又」ともいわれ、寛文年間(1670)頃は「万場の渡し」の応援や津島祭の車舟として、20艘の舟が出ていたことが『尾張徇行記』に記されている。近郷の年貢米を藩の倉へ送ったり、鳴海の酒荷も運搬されている。また三重県の多度方面との往来も伝えられており、賑やかな湊であったと思われる。”と書かれていました。
昭和55年に緑地帯として整備され、今は大江川緑地として市民の憩いの場所になっております。
花見で賑わうのも、もう直ぐです。日本、日本人にも必ず春が来ると願わずにはおれません。